DiamondApricot 徒然はるさん

善人の顔・悪人の顔

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人間には 性善説と性悪説があるらしい。

ばかばかしい、そのどちらも内包しているのが 人間だと私は思うよ?

ときに性善、ときに性悪。バランスのちがいはあれど、人とは それらの相を行き来するものであり、どちらかに固定されている人はまずいない。 私は 善悪の判断において 一説持っているけど 別の機会に譲ることにしよう。今回は 話が違う。

 

どんな大悪人であろうとも その人物を産んだ母親にとっては、自分自身に産み育てる幸せを与えてくれた「善人」であるかもしれない。

人が善人か悪人か、判断するのは、本人を含めた複数であり、だからこそ 一人の人間の根本を 善人なのか悪人なのか 見分けることも難しいのである。

かように 自分自身を基準とした場合、ある人に 自分の善人の心を 向ければ、その手法に誤解を招かない限り、その人にとっては 自分が善人に見えるだろう。

同様に 誰かに 自分の悪人の心を向ければ、その手法にさらなる悪意がない限り、その人にとっては 自分が悪人に見えることになる。

 

よりよく 自分の人生を歩もうとした場合、自分以外の全員が 自分に対し「善意」を向けてくれていた方が、いいに決まっている。

自分が 他人に対して 悪意を向けた場合、その多くの人に 悪意か、善人の顔をした やはり 悪意を向けられてしまうことが増えるだろう。

しかし 少なくとも 自分が 他人に対して 善意を向け続ける限り、人は 善意・悪意のどちらかを選択して こちらに向けてくれる。

ここで 悪意を選ぶ人は 自分にとって 限りなく悪人であるから 今後 ムダな友好関係を築く努力をしなくてすむことがわかったのだから、それは それで 得だろう。商売も同じである。

どのような 商売であろうとも 自分の店の商品を顧客に買っていただく行為そのものは「店に善意を向けてくれた結果」と考えるしかない。

その商品を買った時の 顧客の目的・心情はともかくヘタな宣伝活動に体力(財力)を費やすヒマがあるなら、顧客に対し、その善意を喚起させる商品(あるいは他人に向けて悪意を発生させる商品)を作ったほうが はるかに効率がよい。

 

小さい頃、近所の駄菓子屋で ¥10クジを買い 出ていくときには「ありがとう!」と あいさつした あの頃を思い出してほしい。

その「ありがとう」の言葉に、「ありがとう」と答礼する あの老婆の姿を思い出してほしい。

その ありがとう、の意味は「売ってくれてありがとう」「買ってくれてありがとう」、つまり ふたつの「ありがとう」で成立する 小さくも重厚な「大商談の成立」を表しているのである。それが 日本型商売の根本哲学であることを忘れてはならない。

お客様は 神様ではない。

こちらが 売らなきゃ 顧客も けっして買うことができない。 そう強く言いきれる商品と体制を わが社は築き上げたはずである。

「ありがとう」を言わない 顧客に、ひとつの商品も 売ってはならない。

そういった 最低限度の礼儀作法をわきまえない顧客は、我が社の商品を まちがいなく 悪用する。

だからこそ 売ってくれてありがとう、と心の底からの感謝が、声に・そして文面に あらわれている顧客には マニュアル以上のサービス、自分が思うところの善意を 相手方に向けることを 私は厳命しているのである。


「徒然はるさん」