DiamondApricot 徒然はるさん

南の島

- 日本人が眠る平和な海岸 -

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ひさしぶりに二度と見たくない映画「プライベートライアン」。

テーマは「お母さん」なんだけど、うんざりして怒鳴りたいほど 凄絶なシーンで埋め尽くされ、完全な戦争映画であることを思い知らされる。

迫撃砲の着弾で腹膜を裂かれて内蔵が脱出し、そこにいるはずのない母を呼ぶ兵士...もし、そこに母親がいたとしても はらわたが飛び出た我が子をどうせよというのだ...もう、のっけからボロボロ 泣かされてしまった。

本来「もう一度みたい」と思うような戦争映画ってのは、どこか「かっこよさ」を俳優や監督・脚本家が意識しているようなとこがあり、やっぱ どうしてもウソくさい。

実際の戦争ってのは 五体そろってりゃ 死体でもハンサム!...と、スピルバーグは知っているかのようである。彼は従軍経験はなかったはずなんだが、イマジネーションで ここまで 仕上げたとすれば、やはり彼は「奇才」なのだろう。

 

この映画と似たことを、私は小さい頃から 祖父に教えられてきた。

私の祖父は 戦前・放射線技師であり、応召後は四国・善通寺にある陸軍病院で勤務していた。
当時 放射線技師というのは希少なエンジニアであり、戦線が拡大・膠着する中でも、多くは内地勤務だった。

入隊前は民間病院にいたのだが、満州事変・支那(シナ)事変に動員された関係で 病院兵站(へいたん・補給)付の下士官になったらしい。

陸軍の放射線技師は その作業上、医療・偵察(写真を現像するから) のふたつの軍事教練(教育)が徹底して行われていたそうだ。

ところが、戦線の泥沼化とともに、衛生曹長として南方戦線への赴任を命じられることになる。

 

ニューギニアは 太平洋最大の「島」で 国土は 日本の約2倍。

島は マウケイ山脈と呼ばれる4000m級の山々で南北を分断されている。
当時 国内の兵士の間でも、「ブーゲンビルやラバウルと異なり ニューギニアはまだ安全」とはされていたが、行ってみたら そんなナマやさしいものではなかった。

最初の上陸目標はニューギニア島の北・ポートモレスビーの反対側「マダン」から「ウェワーク」の海岸線のどこかだったらしい。
4隻の駆逐艦と、3隻の大型輸送船に 兵員・食料・弾薬を満載していたが、上陸直前 うち輸送船一隻が敵潜水艦の魚雷攻撃で「撃沈」。あたりどころが悪く、1500人の日本人と共に10秒程度で 海に消えた。
(このあたりは 現在 マリンリゾートとして 沈船ダイビングが盛んなことを、私はクチが裂けても祖父には言えない)
御巣鷹山に落ちたB747のざっと3倍の人命が 報告書で終わるという時代である。

当時、陸軍は 1個連隊を「同郷人」でまとめていた。今の日本では 想像できないだろうが、当時「方言のカベ」は戦闘時の連絡に支障が生じるほど強かったのだ。

だから「撃沈」された船には 同郷の友人・知人が多数乗船していたはずだが、それを むざむざ見守るしかなかった兵員たちの心のうちは いかばかりであっただろうか。

 

上陸は 夜。

十数隻の上陸用ディーゼルボートに補給物資を載せて 上陸を試みるのだが すでに制圧しているはずの味方陣地から、砲弾やら銃弾やらが 雨あられのように飛んでくる。

昨夜の間に 敵兵に占領されてしまったのだ。
「はなしがちがう!」
と言ってもはじまらない。弾丸が艇体に当たる音は「トタン屋根に石をぶつけた音」にそっくりらしい。

そうこうするうちに いくつかの弾丸が 何人かの兵員のアタマを吹き飛ばし、脳漿が数十人の頭上に飛び散る。

兵は 規定に反し、船上から各個応射するが、海岸にたどりついたときには 半数の兵員が死亡あるいは重症を負っていた。

大波が打ち寄せるなか 海水にむせながら、砂浜にたどりつくと 足元がグニャリ。
照明弾で それが 味方の死体であることに気がつき、「ぎゃ!」と悲鳴をあげて飛びのくと、またグニャリ。
なんと!海岸一面が「死体で埋まって」おり、砂地が見えないのだ!

しかも どの遺体も アタマがない・腕がない・下半身がない...と、まともな死体のほうが少ないのだ。

全部 日本人であり、敵兵の死体はどこにもない。

衛生兵として「呆然」と立ち尽くしたそうだ。

 

2週間かけて、なんとか兵站病院(戦線上の臨時病院施設)を設営したが 運ばれてくる「患者」は どれも国内ではけっして見ることができないものばかり。
銃弾による「銃創」は あまり見られない。当時ジャングルでの地上戦は 比較的 少なかったからである。

航空機による銃撃というのは 人体に当たれば その部分が「破裂」するから だいたい即死だそうだ。

こわいのは 至近爆弾で 直撃を受け バラバラになった死体が、弾丸のように周囲に飛び散ることだ。爆弾の破片の貫通創かと思って切開したら、患者の中から「他人の指」やら「ホネ」やらが出てくることも珍しくなかったらしい。

破片貫通創だと ほとんどの場合、内臓か 筋肉がグチャグチャになり、1日ぐらい もだえて そして死ぬ。

 

なんにしても ほぼ全員が「飢餓」と「マラリア」で 栄養状態は極めて悪い。
そのうえで どこか出血しようものなら、現在のわれわれの半分もポテンシャルは薄い。
医療用の薬品も徹底的に不足しているため、まさに 現地調達。
兵站病院の裏庭に「ケシ畑」が作られ、あへんを生成し そこからソーダにして モルヒネを作っていた。
(私は 祖父から詳細に モルヒネの作り方を習ったが さすがにここではボカしておく。今の日本では あまりにカンタンすぎるのだ)

そんな状態だから、重症の患者が「小用」と称して ひとりで 外に出る。それを誰も止めない。数分後 手投弾の破裂音が聞こえる。

そんな毎日だったそうだ。

これが 約50年前、日本の成人男子の多くが体験したことである。

 

祖父が思慮深げに言ったことがある。
「誰でも...死ぬまぎわに 母親を呼ぶんだよ」
患者の中には 産まれてすぐに母親に死なれ、母の顔を知らない者もいたのだが、それでも例外なく「母親」を呼ぶのだそうだ。
粗製モルヒネの筋肉注射で 激痛から開放され、夢うつつになり死んでゆく。
その瞬間 思い出すのは 母の面影なのだ。
「おかーさーん...って言うヤツはいても、とーさーんって言うヤツはいないんだな。なんか寂しいなぁ。」

そのときは笑ったが これは 深い。

映画「プライベートライアン」でも、母親を呼びながら死んで行く兵士・つかの間の休息に 小さい頃の母親の思い出を語る兵士が よく出てくる。

私は このシーンを見て そんな祖父の話を思い出したのだ。

 

祖父に「もう一度 ニューギニアに行ってみないか?」と さそった事がある。
私に戦争を熱く語り 無意識のうちに、過去に少しでも区切りをつけたがっているのだから それは私の絶妙なアイディアだった。
現地はリゾート化されており、老体でも 行けないことはない。現地は とっくに平和な南の島・平和な海岸であり、戦友に花をたむけることができる。

だが 祖父は断固として「絶対に...二度と行きたくない!」と拒否した。
私の ヘタな気遣いなど まったく迷惑なほど 凄惨な現場を 50年前・その目で見たのだ。

いまでも 祖父にとって ニューギニアの海岸は 人の血で「赤黒く」に染まっているのである。

いまでも 祖父の脳裏には、埋葬した患者の名前・出身地・骨の場所が 克明に浮かんでくるのである。

 

リアルとは そういうことだ。

戦争映画とは「二度と見たくない」ものでなくてはならない。


「徒然はるさん」