DiamondApricot 徒然はるさん

80%で一人前

- ひとりでがんばらないで -

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寛容な人が成功する理由

完璧とか、二度とないとか、かんたんに言うけど 「完全」のコストはとても高い。

ある雑誌編集者によれば。
誤字脱字が『校正』によって訂正される確率は、初見の段階で「約80%」と見積もるらしい。
仮に10文字、誤字脱字があれば1回目の校正で8文字が訂正できると期待する。

自動校正がない「テキストエディタ」で書かれた原稿の場合、プロの作家でも、誤字脱字は1200文字中1~3文字は発生する。それを、
初稿→デザイナー→編集者(再校)→著者校→編集長チェック(三校)→校了(印刷所渡し)
と、多段のチェックを入れることで除去してゆく。

それぞれの職がちゃんと仕事をしていれば、再校(2段階)で 約96%、三校(3段階)で約99.2%、校了時には99.84%まで誤字脱字が訂正される。

この 99.84% という数値。

文庫本の小説がページあたりおおむね600文字で200ページあったとして、12万文字。誤字脱字が100~300文字あったとしても、校了時の誤字脱字は0.16文字~0.48文字。つまり1文字を下回るので「誤字脱字は発生しない」。

著者を含めて4人いれば、1冊の文庫本の文字の誤りを事実上のゼロにできるわけだ。

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しかし、ある認知心理学者は、重要なことを述べる。

この誤字脱字の『校正』作業を、書いた本人だけで複数回 行った場合。

1回目は80%近い検出率を保持できるが、2回目以降は検出率が50%未満に下がってしまうらしい。自分の誤りを、自身で訂正することは、誰もが苦手なのだ

だから高い精度を要求されるデータエントリー業務では、入力内容を複数でクロスチェックする。ときには最初から「2人」で「同じデータ」を入力し、つきあわせ(マージ)照合することもある。異なる人生を歩んだ2人が同じミスをする確率は相対的に低くなるからだ。1人が2倍の時間をかけても、この精度は達成しにくい。

 

この事実を、プライドの高い人はどう受け止めるだろう。

1人の注意力をどれだけ努力で上げても、凡人の2人にはかなわない。

人の社会的能力の半分以上は、誤ったときのリカバリーによって評価されるものだが、そもそもの誤り検出は一定水準から鍛えようがないのだ。

 

自分に完璧を求めるなら、他者に自分の誤りを訂正してもらったほうがいい。

自分だけで完璧を目指すことは「誤字脱字」の例を見ての通り、困難がともなう。

だが、そもそも自分が完璧だ・あるいはそれに近いと思い込んでるのなら、自分の誤りに気づいていないだけかもしれない。それは、ずっと恥ずかしいことのはずだ。

にもかかわらず、プライドを高めすぎてしまった人は、誤りを他者に探してもらうことも、他者の誤りを許容することも苦手となろう。結果として、リーダーの素養はもちろん、個人としての能力も、年齢に比例してやがて周囲に劣るようになる。
 老獪(ろうかい)な経営者であれば、自身の誤りと・他者の誤りは、等価に寛容であり、それを経験則として自然に身につけている。そのことは器の大きさにも見えるだろうが、いや、そうしたほうが人的コストを安くできるというにすぎない。

それぞれの80%の能力を組み合わせ、長く人を使うことに長けた人は、リーダーとしても成功しやすいということである。

人は80%で充分だし、それ以上を求めるのは効率がわるいのだ。

 

そうした先人たちの組織的工夫の成果で、世にあふれる製品も きわめて完璧に近いものが廉価に手に入るようになった。
それがハードウェアの品質を目指すにとどまっていればよかったのであるが、近年の社会風潮は、それが生身の人に向けられ、誰かのミスをあげつらい、それを徹底して糾弾することにみなが勤しむようになった。
自身は完璧でないのに、会ったこともない誰かに対して完璧を求める・・・
どこから、こんなにも浅ましい風潮が醸成されるに至ったのか。

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厳格も寛容も忘れた社会で ひとりたたずむ君に

私たちは、つい最近まで 「ひとつの物事に多数が リチェックする日本社会」を経験した。

借りた金で大量に人が投入され、ものによっては 99.9%の完成率・すなわちエラーレート0.1%未満のサービスや商材、ソフトウェアやハードウェアが社会に出現した。
 しかし物質的価値を求めた消費志向が衰退し、精神的な充実を求める社会に移行してゆく中で、最初に浪費されたのは無体物たる「コミュニケーション」だった。

これに囲まれた人々は、80%で一人前ということや、20%の寛容性という最適コストパフォーマンスをすっかり忘れてしまった。なにをもって 一人前か、なにをもって完成なのかすら、多くの人は わからなくなってしまったのである。

やがて社会が縮退傾向に入ってしまうと、コスト削減から リチェック人数が減少し、人々のエラーレートが上がりはじめた。寛容を選ばねばならない時が来ているのに、100%が当たり前と信仰して疑わない完璧主義な国民層が求めたおかげで、エラーレートはそのままに・周囲の対人コストのほうを上げてしまった。

ギスギスした社会に厭世した若者が、濃密な集団や組織を敬遠するのは当然の道理であろう。
あるいは、そうしたくだらぬ大人のマネをすることで、大人になったフリをする若者までいる。

 

だが、いま ひとりで たたずむ きみよ、おぼえていてほしい。

いずれこの国は、「80%で一人前」というごくあたりまえの常識に収斂することになる。そうでないと、社会と福祉と経済がもたないからだ。
 そして もし、その日までに、きみが「20%の寛容性」を身につけ、人々のつながりの中心になれたとしたら(いや身につけるだけで勝手にそうなってしまうものなのだが)、そのつながりはきみにとって重要な成功の手がかりになるだろう。
 なぜなら・・・きみたちの世代は20%の寛容性を教えてくれる大人が周囲に少ないため、それが理解できる若者もまた少数の存在だからだ。

友情を含むすべての信頼関係は、互いが好意を持ち合うことで成立するが、その好意を維持するには寛容性が必要不可欠である。

それを学ばせてもらえなかったきみたちの世代は、やがて持続的な好意に餓えた世代になるだろう。

その世代が社会の中心となるとき、きみが持続的な好意を周囲に提供できたとしたら、それを与えられた多くの人が きみになにかをしてあげたい、なにかきみの役に立ちたいと心底思うだろう。

いま、ひとりっきりでがんばらないでほしい。

他者には20%の寛容を。 そして、きみも80%の人間を目指すといい。 
そうすれば、将来 完璧を求めて倒れてゆく人が大勢いる中で、きみは80%でいながら、なぜか周囲に支え続けられる人になるだろう。

 

 


「徒然はるさん」