4/2・東京・皇居の千鳥ヶ淵では 桜が満開だった。
同じ日、病気療養中の 祝 一平 ・本名 三上之彦さんが亡くなった。
「1バイト入魂!」
多くの名言を残した氏は、多くの人に惜しまれながらこの世を去った。
私はSHARP-X1 という Z80-8bit パソコンが入門機である。
購入半年後の中学3年生・高校受験まっただなか。1984年1月・ソフトバンク「Oh!MZ'84/2」に出した「ショートシュート」で、私はデビューした。
デビューと言っても、友人が作った基本ルーチンにサウンドやカラーを加えて投稿したもので、高校受験の息抜きにすぎない。
本格的に 機械語でソフトを組み始めたのが、時間に余裕のできた高校になってからのことで...
時を同じく、そのころ Oh!MZに「皿までどーぞ」「試験に出るX1」などのテクニカルコラムが連載されはじめた。
軽妙なタッチで、しかも 読みごたえがある。
文学的な価値はともかく、技術文書であるにもかかわらず ストーリー性があった。
しかし なにより驚いたのが、その人気著者はエンジニアであり・専業作家ではなかったことだ。
当時の私の常識は「文を書く人は文系・電気をいじる人は理系」というものだった。
「理系のエンジニアでも こんなおもしろい文章を書く人がいる!」
その作者こそ、後に「人類タコ科図鑑」を著し人気を不動のものにする 祝 一平(いわい いっぺい)氏・その人である。
高校2年ぐらいになると 私は入門書よりも・資料を必要とするレベルになり、Oh!MZを買い続ける理由はなくなった。
しかし、氏の連載「人類タコ科図鑑」は パソコン誌に連載する必然性が まったくないほど、世相を風刺し・切り倒し・文句なく おもしろかった。
これを読むためだけに Oh!MZを買っていたし、事実・多くの読者が 彼の連載を楽しみにしていたのではなかろうか。
私は このとき、コムパック(工学社)・PC-9801版ランディングシミュレータ「ザ・コクピット」の移植作業を行っていた。(これは 後に別の作者さんが担当し、私にとっては まぼろし となる)
祝 一平氏の「試験に出るX1」は 大いに その参考となり、私の3作目・X1ワードプロセッサ「ハイネス」でも、同連載のPCGデータローディング・タイミングチャートがなければ、絶対に完成しえなかった。
祝 一平氏のコラムでありながら、そこに出される資料は 他では絶対に入手できない情報。
まさに 氏は、私にとっての 技術の師であった。
私は大学に入って、メイン機種を PC-9801 に変えた。
祝一平氏の推すX68000 は 値段が高くて手が出なかった。
加えて、私は プログラミングを 基本的にアセンブラで行っていたため、Z80→80x86への移行が最重要課題であり、LD → mov
の違いだけという環境は、私に選択の余地を与えなかった。
祝 一平氏は、X系を こよなく愛している...というスタイルを文字通り 死ぬまで貫いたが、同時に、多くの読者に Z80機械語レベルの重要なスキルを与えてくれた。
その結果、多くの読者が Z80のスキルを持って PC-9801系に向けて去っていったのは まさに皮肉なことであった。
コラム「終わりのない物語」の完結とともに、祝 一平 氏は 時代の表舞台から降りた。
それから 数年が経ち、今度は 私が技術誌のライターとなった。
「技術屋が文章を書いてもよい」という思考は、祝 一平氏から いただいたものである。
同時に「いくら優秀でも マシンや言語に縛られると致命的になる」という現実も、私にとっては 祝 一平氏が反面教師となり
導かれたものである。(→『ハッカージャパン』vol2 白夜書房に記載)
なによりも、ファンレターやファンメールをもらって 読者から「おもしろいです」と言っていただけた時、それに喜び・感謝する一方で、私が 「それでも私よりおもしろい人がいる」と考えてしまうのは、ひとえに 祝一平氏がいたからである。
氏の文章は「マネ」ができない。
天才を目標にすることほど、バカバカしく危険なことはない。
おこがましくも ライターとしては、氏を ライバルではなく師匠として考えることが 最も安全であった。
ただ一方で「誠意をもって・本音を書くとき・読者は振り向く」という 著述の大切な心得を、祝 一平氏が その身と人気をもって体現し、それを私たちに教えていたような気がする。
4月10日。もう一度、皇居 千鳥ヶ淵の桜を見に、クルマをとばした。
桜田門に通じる その通り・桜はすでに散り始めていた。
謹んで 氏の冥福を祈りたい。
合掌
1999年4月11日・山崎はるか
※氏の通夜は1999年4月5日・告別式は4月6日に埼玉県川越市・県西ホールで行われた。
詳細については ソフトバンクの「Oh!Xvol2」で掲載される可能性があります。