DiamondApricot 徒然はるさん

よーい・どん!

- 「こころ」の中に 福祉施設は建てられる -

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ある特殊な溶媒やコロイドの上に核酸・染色体を乗せて、両端に軽い電位差(電圧)をかけると、それぞれの遺伝子が持つイオン特性によって、電極間の特定の位置に それぞれのDNAが集合する。

これを蛍光剤や特殊な電子線で発色させると、バンドと呼ばれる バーコードのような帯が容器の中にできる。

「××で採取されたO157のこの部分が 今回のO157と一致しているんですね」

レントゲン用のシャーカステン(蛍光灯で白く光る装置ね)に差された遺伝子映像を、ニュースで見たことのある人も多いだろう。

指には指紋・声には声紋があるように、遺伝子を紋にする装置。

PCR法とともに、もっともメジャーな染色体・遺伝子解析方法が「電気泳動」である。

 

このバーコードをPC上で高速に読み取り、流れ作業のように測定結果を蓄積し・比較・集計してゆくソフトを研究して「カタチ」にするのが 私の本職である。

月1回・私は品川の外資系研究所にいる友人・・・エージェントのところに 打ち合わせにゆく。
残念ながら 日本には、これらの技術を正当に評価し・商品化する基盤がない。

日本の研究機関では これを私の(日本の)技術と知らずに、えらい高いカネ出して逆輸入しているトコも少なくない。
ヘンなハナシである。

 

先月、この打ち合わせの帰り、北千住の駅で 不思議なアジア人男性に会った。

私は誰かと目があったら、他人であっても、かならず その人に会釈するのだが、これに対し その男性は私を じぃー!っと見た後・にっこり笑って 深々と おじぎをしたのだ。

「(あれ知りあいだっけ?)」
そう思って、でもどうしても思い出せないので、戸惑っていると 彼は歩み寄ってきて、
「ありがとうございます」
と握手を求めてきた。

「え?」
ますます 戸惑ってしまった。
たしかに かつて どこかで会ったような気がする。
「あのー、どこで お会いしましたっけ?」

すると、後ろから 初老の女性が よってきて言った。
「ごめんなさい、このこ 自分に笑顔を向けてくれた人 みんなにお礼を言うんです」

もう一度、彼の顔を見た。
多少 彫りは深いが日本人である。でも...あ!
私の表情を見た 年配の女性・母親は その意図を敏感に察したようである。

「そうなんです...このこ」

ダウン症。かつては その容貌から蒙古症と呼ばれていた。

ただ、彼の場合、ぱっと見では、わからなかった。(ちょっと知的な問題を持ってるかな、という程度だった)

まったく人それぞれだ。

 

ヒトの遺伝子に携わる医療研究者で、ダウン症を知らないものは まずいない。
先天性心疾患・腸疾患を中心として知的障害を併発する場合が多い。

 受精後・卵割される ある特定の時期に起きる遺伝子の変化によって生じる。

もちろん他の要因もあるが、いずれにしても その可能性は ランダムと考えてよく どの夫婦の子供にも 0.1%の確率で起きる可能性がある。
つまり 1000人に一人の赤ちゃんが、ダウン症なのである。

それにしても、ダウン症患者の多くは 心疾患をかかえており 比較的短命のはずではなかったか。
「きみ、いくつ?...あ、おいくつですか?」
言いなおした。最初の問い方は彼に失礼だと思った。

かつて 友人の看護師が「どんな知恵遅れの人でも 自分がバカにされていることは わかるんですよ」と言っていた。そして「健常者と同じように傷つくんですよ」とも。

だが、彼は、私の言い換えなど、気にもとめずに「27歳です」と元気よく応えた。
母親も ずっと ほほえみを浮かべていた。
その親子の笑顔は ...もう どんな悪魔もかなわない無敵さを誇っていた。

私は あらゆる種類の衝撃を受け、感動するよりほかなかった。

私は この場所に立ち会えるほどの人間だろうか。
こんな大きな勇気をもらう資格があるのだろうか。

 

私は 小さい頃のほとんどを、高知県高知市の北本町というところですごした。
準工業地帯で 近所はトヨタや日産、いすずなど自動車メーカー・整備工場、そして材木加工工場が立ち並んでいた。
現在は 環境が見なおされ、工場は立ち退き、マンションや住宅が多い。

私の家は 中堅製材工場で 1000坪以上の敷地があった。

私は その敷地で のびのびと育ったと思う。

その工場の真正面に、「昭光園」という障害者福祉施設があった。

工業地帯のどまんなかに 知的障害者福祉施設。

けっして 交通の便のよい場所ではない。バス停からは500m・JRからは1キロもある。

そういう時代だったのである。日本は そういう国だったのである。

いや 今でも 知的障害者の作業所が建設されると、周囲の地価が下がるそうだ。
そのため 知的障害者の多くは 電車を乗り継ぎ・バスを乗り継ぎ・不自由なカラダをおして それでも何か学ぼう・役に立つ事をしようと 遠い場所に毎日 通ってくるのだ。

偏見というのは まったく どうしようもないものだ。

いや、この言い方はずるい。

私だって そこに住んでいなかったら、障害者と接する機会はなく、奇異と偏見の目を持ったに違いない。ヘタしたら、そういう福祉施設が近所に建設される場合は、住民運動の先頭に立つような性格だったかもしれない。

 

北千住の彼に会って、思い出した。

その施設に通う 彼らの容貌・動作は、いま思えば ダウン症そのものだったかもしれない。

彼に対して かつてどこかで会ったような気がしたのは、子供の頃の記憶が作用したからだったのか。

そして さらに思い出した。

あの施設には、小児麻痺の人も通っていた。

小児麻痺は知的障害ではないのに。

20年前とはいえ...なんという 時代だったのだろう。

子供だった近所の私に 優しく声をかけてくれていた 昭光園の園長の顔を思い出す。

その笑顔は 駅でみかけた あの親子の笑顔に共通していたような気がする。

園長の その笑顔が 子供だった私の将来に向かって 知的障害者に対する偏見を拭い去ったのだとすれば...世の中に数種しかない勇気のうち・その ひとつを確実に感じさせる機会を与えてくれた・そういう自分になるきっかけを与えてくれた あの園長に感謝せずにはいられない。

人をほめることの大切さ・その機会の大切さを あの園長は 確実に受けとめていた。

 

東京に住むようになって 特に思う。

確率論上、100人に1人は なんらかの重度障害を持っている。

さらに20人にひとりは、なんらかの社会的補助が必要な障害があるとされている。

 

我々が それを意識しないのは、学校や職場が「健常者の集団」で構成されているからだ。
だいたいの人が、「20人にひとり」などと言われたら、「職場やクラスに2人の割合」などとしてイメージするだろう。
だがそれは、「健常者」の卑怯な集合論なのである。

が、それにしても、かなりの数にのぼるはずの障害者を、街中で どうしてみかけないのだろうか。
まさか、まだ 異様な偏見が この街にあるというのだろうか。
なんか ぞっとしないなぁ。

 

「福祉」というと、保護や介護、生活補助や施設をイメージする方が 圧倒的多数だと思う。
だが、私は それが正しい事だとは思わない。

障害者に必要な「福祉」とは「健常者と同じスタートライン」に立たせる事を意味する。

みだりに屋内に押し込んだり、じっとさせて寿命を迎えさせるのではなく、健常者と同じように 社会に立たせ・社会を歩かせ・活躍できるだけのスタートラインまで引き上げる、それだけの補助で充分なのだ。

それ以上のものは まったく必要とせず、過保護は さらに悪い。
どこかの左よりな政党が吠えるような「福祉」の論理を、彼らは まったく 求めていない。
むしろ 人のこころの中にこそ、福祉施設が必要であり・求められているのである。

北千住の駅で出会った あの親子の笑顔が どうして生まれたか、その背景の残酷さを 社会は知るべきである。
その想像に堪えない闘いをのり越えた結果だけを指して「ほら・身障者だからといっても それなりに幸せなんだよ」というオオバカモノに、福祉と医療を語る資格はない。

 

その意味において、卵子・精子レベルの遺伝子診断・治療を私は容認する。
べつに 私が日本の遺伝子倫理を決めているわけじゃないけどな。

だが 少なくとも、日本が 金銭だけの・建物だけの 福祉社会のままだとすれば、その周囲の醜さを あたらしく生まれる子供たちに負わせるわけにはいかないと思うのだ。
そう考えているのは 私だけではないはずだ。


「徒然はるさん」